渚が後片付けをしている最中に千尋は昨夜洗っておいた洗濯物を日当たりの良い和室に干していた。「渚君がいるから洗濯物外に干しておいてもいいかなあ?」干し終えて、ポツリと呟いた時。「うん、大丈夫。洗濯物乾いたら僕が取り入れておくから外に干しなよ」「え!? い、いたの?」いつの間にか片付けを終えた渚が千尋の近くにいた。「うん、今来たところだよ。ごめん、驚かせちゃったかな?」「ううん、大丈夫だよ。それじゃ、お願いしていい?」「うん。ついでに畳んでおくよ」「それは大丈夫だから!」そこだけ千尋は強調した。若い男性に自分の下着まで畳ませるわけにはいかない。「? 遠慮しなくていいのに……」渚は不思議そうな顔を浮かべると部屋から出て行った。(渚君て、時々まだ子供の様な言動するよね……不思議な人)千尋は渚の後姿を見ながら思った——****「ねえ、渚君。本当にお店まで付いて来るの?」並んで歩きながら千尋は渚を見上げた。「勿論、昨日お店の人達にきちんと挨拶出来なかったからね」渚はどこか嬉しそうにしている。その時、2人の前にを白い犬を連れた年配の男性が現れ、千尋の足が止まった。千尋はじ~っと犬を見つめている。「千尋?」渚が声をかけた。「ヤマト……」「どうかしたの? 千尋?」千尋の目は前方の犬を捕らえている。「あの犬がどうかした?」「あ、ごめんね。私、つい白い犬を見ると……。前に飼っていた犬のこと思い出しちゃって。私ね、前に白い大きな犬を飼ってたの。ヤマトって名前だった。お爺ちゃんが亡くなった後もずっとヤマトは側に居てくれたんだけど……。でも2か月前にストーカーが家に侵入してきた時にヤマトが犯人を追い払って、そのまま後を追いかけて行ったきり姿を消してしまったの」そして千尋は目を伏せた。「千尋……」「今、何処にいるんだろう。寒い思いしていないかな、どうして戻ってきてくれないんだろうって思うと、私……」最後の方は消え入りそうな声だった。「千尋はまだ、その犬のことが忘れられないんだね」しんみりとした声で渚が尋ねる。「1日たりとも忘れたことなんか無いよ。だって大切な家族だったんだから」「……きっとヤマトは世界一幸せな犬だったと思うよ。こんなに千尋に思われてるんだから」渚はまるで何処か痛むかのように切なそうに笑った。「え……?」
—―9時「はあ~」里中は備品の整理をしながらいつにもまして大きなため息をついていた。「どうしたんだ里中。元気が無いようだぞ? 今日は近藤もいないんだから頑張ってくれよ?」リハビリ器具の点検をしていた野口が声をかけてきた。「え? 先輩、今日は休みなんですか?」「うん、何だか頭が痛くて体調が悪いから休ませてくれって今朝連絡が入ったんだ。風邪でも引いたのかな?」「他に何か先輩言ってませんでしたか?」里中は昨夜、近藤が無事に家に帰れたのか少しだけ気になっていた。「いや? 特には何も言ってなかったぞ? だけど随分具合が悪そうな声を出していたからな……。帰りに様子でも見に行ってみるか?」「大丈夫ですよ、先輩付き合ってる彼女がいるんですから。きっと面倒見に行ってくれますって。逆に行くと2人の邪魔になりますよ」(先輩の名誉の為にも二日酔いで仕事を休んだなんて知られたくないだろうからな)「ふ~ん、そうか。で、里中。お前はどうしてため息なんかついてたんだ?」「……主任。ちょっと聞いてもいいですか?」神妙な面持ちになる里中。「どうした?」「男女が見つめあってる時ってどんな時なんでしょう?」「は?」「人混みの中で見つめあうって、どんなシチュエーションの時なんでしょうか!?」「な、何だ? 急にそんな質問して……。まあお互い、どんな表情で見つめあってるか次第で色々と状況が変わって来るんじゃないか?」「それじゃ、例えば相手の男が女の子を笑顔で見つめていて、女の子の方は驚いた感じで男を見ている……」「随分具体的な話だなあ? だが俺の考えでは、これから2人の間には新しい関係が始まるって気がするんだけどなあ?」「何ですかっ!? 新しい関係ってどういう意味ですか!?」里中は主任に詰め寄ると胸元を掴んだ。「うわ! 何だよ急に! お前、それより仕事に戻れってば!」………その後暫くの間、里中を落ち着かせるのに野口は随分時間を費やしてしまったのであった――**** その頃、<フロリナ>ではちょっとした騒ぎが起きていた。「ええ~っ! 千尋ちゃん、ついに男の人と同棲始めたの?!」渡辺が驚きの声をあげた。「違いますってば、新しい仕事と住むところが決まるまでの居候ですよ」出勤後、千尋と渚が一緒にやってきたのを見て真っ先に質問してきたのは中島であった。店をオ
渚と同居し始めてから数日が経過していた。買い物や料理、部屋の掃除等は渚が全てやってくれるので、思っていた以上に渚との生活は快適な暮らしであった。もっとも、洗濯だけは千尋が担当している。家のことは全てやると渚は言ってきかなかったが、若い男性に自分の下着まで洗濯をしてもらう訳にはどうしてもいかない。必死で言い聞かせて洗濯当番だけは死守したのであった。****「おはよう千尋。今朝のメニューは千尋のお気に入りのコーヒーに野菜スープ、そしてフレンチトーストだよ」朝、開口一番渚が起きて来た千尋に笑顔でかけた言葉である。「おはよ……。え? 渚君、今朝本当にパンにしたの?」千尋は渚が用意した朝食を見て目を見開く。「うん、だって千尋が今迄食べていた朝ご飯ってコーヒーとトーストだったんでしょう? 昨日商店街のコーヒーショップで買って来たんだよ。このコーヒーは女性に人気があってね、甘みのあるブレンドミックスで飲んでみるとビターチョコの風味を感じられるんだ。ほら、飲んでみて」コーヒーカップに注がれたコーヒーを一口飲んでみる。「ん、美味しい! お砂糖もミルクも入っていないのに少し甘く感じる」「でしょう? 良かった、喜んでもらえて」渚もコーヒーを飲んだ。「やっぱり、カフェで働いてただけのことあるね。私が淹れたコーヒーより全然美味しい。凄いね渚君は」「そんなことないよ。千尋だってすごいよ。花に関する知識は僕なんか足元にも及ばないもの。ねえ、気づいてた? いつも花に囲まれてるからかな? 千尋からは花のように良い香りがするってこと」渚は千尋のすぐ側まで顔を寄せると目を閉じてス~ッと匂いを嗅いだ。あまりにも距離が近く、焦る千尋。「ちょ、ちょっと渚君……!」「アハハ……。やっぱり千尋からは花の香りがするよ」「そ、そんなこと無いから。シャンプーの匂いじゃないの? って言うか渚君てすごく鼻が利く人なんじゃない?」千尋は両手で頭を押さえた。「うん? 確かに僕は普通の人よりも鼻が利くかもね。あれ? もしかして千尋、照れてる? 顔が赤いよ?」「だ、だって急にあんなことするから……」そんな様子の千尋を渚は愛おしそうにじっと見つめている。「な、何?」急に真剣な顔つきになった渚の様子に千尋は戸惑った。「何でもないよ。冷めないうちに食べよう?」次の瞬間にはその表情は
「あの男は……!」その顔に里中は見覚えがあった。(数日前に千尋さんと花屋の前で見つめあっていた男だ!)「あれ~誰だ? あの男。新しい花屋の店員かな? それにしても高身長だし、ルックスもいい男だな。まるで芸能人みたいだ。な、お前もそう思わないか?」お気楽そうな近藤の物言いが何故か癪に障る。現に近藤の言う通り、周囲にいる女性陣から注目を浴びていた。「え? お、おい。どうしたんだよ里中」近藤が止めるのも聞かず里中は二人に近づくと声をかけた。「こんにちは、千尋さん」「あ、こんにちは」千尋はペコリと頭を下げた。「こんにちは」渚も千尋にならって里中に挨拶をしたので、近藤は渚の方を見た。「初めまして、俺はここのスタッフの里中と言います。いつも千尋さんにはお世話になっています」「里中さんて言うんですね。僕は間宮渚です。よろしくお願いします」渚はいつものように人懐こい笑顔を浮かべた。(ちっくしょ……。確かに負ける……)渚の身長は里中よりも10㎝は高いだろうか。当然見上げる形になってしまう。しかも外見も申し分ないときているので嫌でも劣等感を抱いてしまう。そこへ野口がやってきた。「ああ、青山さん。本日もよろしくお願いします」「こんにちは、野口さん。12月になったので今日からクリスマスをイメージした飾りつけにしていこうと思ってるんです」「それは素敵ですね。患者さんやスタッフ皆楽しみにしてますよ。ところでこちらの方は? 新しい店員さんですか?」「僕は……」渚が言いかけると、それを制するように千尋が代わりに答えた。「え、ええ。そんな所です。運搬作業を手伝ってくれたんです。渚君、この方はここリハビリステーションの主任で野口さん」「初めまして」渚が頭を下げた。「ああ、こちらこそよろしく。……おい、里中。お前いつまでそうしているんだ? 早く仕事に戻れ」野口はいつまでもその場を動こうとしない里中をじろりと見た。「あ、す、すみません! すぐ戻りますんでっ!」里中は慌てて持ち場へと戻って行った。 患者のリハビリ器具を取り付けながら里中はフロア内で花の飾りつけをしている二人をチラチラ見ている。よく観察してみると飾りつけをしているのは千尋のみで渚は千尋に花やリボンを手渡しているだけである。(あの渚って男……役にたってるのか?)「……君。ねえ、里
遠目から里中や千尋達の様子を患者のマッサージを終えた近藤が見ていた。「ふっ、後輩思いの俺が何とかしてやろうじゃないか」患者を見送ると近藤は千尋達の方へ行き、声をかけた。「お疲れ様、千尋ちゃん」「あ、こんにちは。近藤さん」丁度千尋が生け込みの仕事を終了したところであった。「うん、いいねえ~。このお花の飾りつけ。まさにクリスマスって感じがする」赤い薔薇やゴールドに染められたマツカサを取り入れた生け込みはとても美しかった。「ところで、君は誰なんだい?」渚の方を向くと尋ねた。「僕は間宮渚。今千尋の家で一緒に暮らしてます」千尋が止める隙は無かった。それを聞いて流石の近藤も驚いた。「え? えええっ! 一緒に暮らしてる? 千尋ちゃん、確か一人暮らししてたよね?」「は、はい……。そうでした。以前は」「何? それじゃ本当に一緒に暮らしてるわけ? この男と?」近藤は千尋と渚の顔を交互に見ながら尋ねた。「はい、そうです。今は僕が千尋の代わりに家事をやってますよ」すると渚が答えた。「あ、もしかして親せきかな~なんて」「違います、親戚じゃないです」「じゃあ、全く赤の他人……?」「は、はい、そうなんです……」千尋は困ったように返答した。「え~と、渚君だっけ? どうして千尋ちゃんと一緒に暮らしてるんだ?」近藤はじろりと渚を見た。「おい、近藤。お前首を突っ込すぎだろ?」そこへ野口が現れた。「あ、主任……」「青山さんと彼の事にお前は関係ないんだから詮索するのはやめるんだ。それより、もうすぐ次の患者さんが来るんだから準備してこい」「は、はい!」近藤は慌てて持ち場へと戻って行った。「すみませんね。里中も近藤も悪い奴らじゃないんですが」「いいえ、いいんです。全然気にしてませんから」千尋は荷物を手に取った。「行くの? 千尋」「うん、終わったから戻ろうか?」「それじゃ、失礼します」千尋が主任に挨拶すると引き留められた。「ちょっと待って下さい。はい、これどうぞ」千尋に2枚の券を渡してきた。「これは?」「実はこの病院のレストランが新しく改装されたんですよ。そのオープン記念として病院スタッフには無料のコーヒー券が配られたんです。良かったら二人で帰りに寄ってみたらどうですか?」「でも、貰う訳には……」「大丈夫、実は役付きのスタ
千尋と渚は病院内部にあるレストランにやってきていた。「うわあ~病院の中にあるとは思えない綺麗なレストランだね」渚は辺りを見渡しながら感嘆の声をあげる。「本当。とっても広いしメニューも豊富で美味しそう」千尋はレストラン入り口にあるメニューを模した沢山のサンプル食品を見つめた「早く中に入ろうよ、千尋」笑顔で渚は手招きし、2人はレストラン中央のテーブル席に座ったが、中々店員がやって来ない。「店員さん、来ないね」千尋は渚に小声で話しかける。「そうだね。僕が直接頼んでくるよ。何だか忙しそうだから」待っててと言うと渚は店員を探し回り、見つけた男性店員に声をかけに言った。そして暫く話し込んでいる。「? 何話し込んでるんだろう?」千尋は不思議に思った。やがて話を終えた渚が戻ってくると千尋は尋ねた。「どうかしたの? 渚君」「うん。実はね、この店オープンしたてで人手が足りなくて困っているらしいんだ。だからここで僕を働かせてもらえないか聞いてみたんだよ。丁度新しい仕事探していたしね。悪いけど千尋、この後面接したいって言われたから先に帰っていて貰えないかな?」「そうだったの。分かった。それじゃコーヒー飲んだら先に帰るね。あ……でも大丈夫? ここからどうやって帰るの? 歩くには遠いし」<フロリナ>から山手総合病院までは車で15分はかかる。歩くには少し距離が離れすぎている。「大丈夫、駅前までバスが出ているから帰りはそれに乗って帰るよ。面接が終わったら一度帰って家の事終わらせたら千尋の帰る時間に迎えに行くからさ」その時、ウェイターが2人の間にコーヒーを2つ運んできた。「お待たせいたしました」テーブルの上にコーヒーを置くと「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく。渚はコーヒーの香りを早速嗅いだ。「へえ~。すごくいい香りがする。中々良いコーヒー豆を使っているみたいだよ」千尋も言われて香りを嗅いでみるが、渚と違って違いが分からない。「う~ん……。私にはあまり違いが分らないかなあ?」「アハハッ、そりゃそうだよ。僕はコーヒーにずっと触れて仕事してたから分かるけど、普通の人には匂いだけじゃ中々分からないと思うよ?」そこから少しの間、2人はコーヒータイムを楽しんだ……。「ごめんね、千尋。一緒に帰れなくて」コーヒーを飲み終えた渚が席を立った。「ううん、
渚が面接を受けに行ったすぐ後に千尋も病院を後にした。<フロリナ>に戻って午後も接客や花の手入れ等で忙しく働き、千尋が仕事を上がる直前に渚が店を訪れた。「千尋、迎えに来たよ。一緒に帰ろう?」心なしか渚の声はいつも以上に明るかった。「渚君、迎えに来てくれたの? 忙しかったんじゃないの?」千尋は渚が買い物袋を提げているのを見て尋ねた。「大丈夫だよ、もう食事の準備は出来てるから。これはちょっと買い足してきた分なんだ」そこへ中島がやってきた。「渚君。毎日青山さんのお迎えご苦労様」「いいえ、僕は渚と一緒に帰りたいから迎えに来てるだけですよ」「む……相変わらずはっきりと言うわね。余程青山さんが大事なのね?」「勿論です! 千尋は僕にとって物凄く大切な人です」笑顔ではっきりと渚は言い切った。「おお~。相変わらずストレートな物言いをするわね……」質問した中島の方がむしろたじろいでいる。「な、渚君! 声が大きいってば!」千尋は慌てて小声で注意した。「あ、ごめん。つい大きい声出ちゃった」周囲にいた若い女性客たちも渚の発言が聞こえていたのか、ヒソヒソささやきあっている。「ねえ~聞いた? 今のセリフ」「うん、聞いた聞いた」「羨ましいなあー。一度でもいいからあんな風に言って貰いたいね~」「あの店員の女の子、羨ましいね」すっかり千尋は注目の的だ。(だから違うのに……)千尋は心の中で思った。渚は自分に愛情表現を向けてくるけれども、それはどうも男女の愛情表現とは違うように感じていた。そう、まるで家族。しかも親子関係に向けられる愛情表現のように感じられるのだった。だからこそ千尋も渚と同居生活を続けていられる。千尋自身、渚を一人の男性として意識してみたことは無かったし、多分この先も無いだろうと考えていた。「じゃあ、すぐに帰る支度するからお店の外で待っててくれる?」「うん、分かった。外で待ってるね」渚は素直に言うことを聞くと店の外へと出て行った。「渚君て青山さんの言うことなら何でも聞くよね?」中島が言った。「え? 本当ですか? 私そんなにしょっちゅう命令してますか?」「あ、ごめん。そういう意味じゃないのよ? まるでご主人様と飼い犬のような関係のようなって、あ~私ったら一体何しゃべってるのかしら…!」そこへ一人の女性客が声をかけてきた。
「じゃーん! 見て、千尋。今夜は腕によりをかけて料理を作ったよ!」渚は笑顔で大袈裟に両手をテーブルの上で広げた。「うわあ……すごい!」千尋はテーブルの上に並べられた料理に目を見張った。トマトソースのラザニアに野菜のグリル焼き、ハーブを効かせた焼き魚にパセリを散らしたポタージュ。どれもが素晴らしい出来栄えだった。「さあ、座って千尋」今夜も渚は紳士的に椅子を引いて千尋を座らせる。千尋がテーブルに着くと、渚は言った。「千尋、今夜はお祝いだよ」そしてワイングラスを2つ並べ、赤いワインを注いだ。「明日仕事がお休みなんだし、たまにはお酒もいいでしょう?」「あ、お祝いと言うことは……面接大丈夫だったの?」「うん、明後日から仕事だよ。さ、乾杯しよ?」「そうだね」千尋は笑みを浮かべて返事をした。「「乾杯」」二人はグラスを合わせた。「家でワインなんて飲むの久しぶり……。普段飲むのってチューハイばかりだったから」千尋はうっとりしたようにグラスを傾けて口にした。「う~ん! 美味しい!」「良かった。千尋に喜んでもらえて」 それからしばらくの間楽しい時が流れたが、やがて千尋は我に返った。「あ、でも待って。本当は私がお祝いする立場だったんじゃないの?」いつの間にか、あれ程あった料理は殆ど食べ終わっている。「ごめん……。今更だよね。もう殆どご馳走食べつくしておいて……」「どうして? だってようやく千尋のお金の負担を減らせるようになったんだから。今夜はそのお祝いなんだよ?」「え? お金の負担を減らすって……?」(まさか仕事が決まったから早々にこの家を出るって言うのかな?)「実はね。仕事も決まったし、千尋に大事な話をしたいんだ」渚は言い淀んだ。千尋は両手をギュッと握りしめて話を聞いている。「言いにくいんだけど……最初に会った時に話した事だけど、仕事が決まるまでの間、住まわせて欲しいって話……無かったことにして欲しいんだ」「え?」「あ~つまり、仕事は決まったけど、ここの家に置いてもらいたいんだ。駄目かな?」上目遣いに千尋を見る。「……」黙って話を聞いている千尋を見て渚は不安に感じたのか、言葉を続けた。「これからはお給料も貰えるから、生活費だって千尋に渡せる。ううん、僕のお金なんて全部渡しても構わないと思ってる」縋るような目で千尋
「おはよう、青山さん」 11時、遅番の中島が出勤してきた。「おはようございます。店長」千尋は花の世話をしながら挨拶をした。「あら? 今朝は渚君の姿が見えないわね? いつも遅番の誰かが出勤してくるまでにはお店にいるのに」「実は渚君、新しい仕事が見つかって本日から仕事始まったんです」「え~そうなの? 仕事何処に決まったの?」「それが、何と山手総合病院にあるレストランで働くんですよ」「え? まさかあの病院のレストランで? 一体どういう経緯でそうなったの?」「この間、病院に生け込みの仕事に行ったときにリハビリステーションの野口さんからコーヒー券頂いて二人でレストランに行ったんです。その時に人手不足で困っている話を聞いて、その場で面接して採用されたそうですよ」「ふ~ん、それじゃ今日は初日ってわけね?」「はい。…上手く行ってるといいんですけど」千尋は新しい職場で働いている渚に思いをはせた……。****「おい、里中。今日の昼飯どうする?」昼休憩に入ろうとする里中に近藤が声をかけた。二人でお酒を飲みに行って以来、何かとつるむ仲になっていたのだ。「う~んと……特に考えてないすけどね」「それじゃ、新しく院内に出来たレストランに行ってみないか? ほら、職員割引がきくし」そこへ同じリハビリスタッフの30代の女性職員が声をかけてきた。「あ、お二人ともレストランに行くんですか? 私もさっき行って来たんですよ。何でも今日から若い男性が働いているらしくて、ものすごーくイケメンなんですって。院内の女性職員達が騒いでました。私はあいにくその男性に会うことが出来なくて残念だでしたよ」「へえーっ。そうなんだ。でもヤローには興味ないなあ。どうせなら若くて可愛い女の子が良かったのにな」女性職員が去った後、近藤は言った。「何言ってるんすか。先輩、彼女いるじゃないですか。いいんですか、そんなこと言って」「バッカだなー。勿論俺は彼女一筋だよ、でも目の保養する分にはいいんだよ」「まあ、イケメンはどうでもいいですけど新メニューは気になりますよね。行きますか? 先輩」「おう! 行ってみるか」****「うっわ! なんじゃこりゃ。すげー混んでるな」レストランのテーブル席は満席だった。しかも良く見ると女性客が多い気がする。「ふーん、皆そのイケメンとやらに興味があって来
「う、うん……。別にいいよ?」千尋が手を伸ばすと渚はそっと握った。渚の手は大きく、千尋の小さな手はすっぽり覆われてしまう。(うわあ。大きい手、やっぱり男の人なんだなあ)渚を見上げると、耳を赤く染めている。「何だか……ちょと照れちゃうね」渚が顔を赤らめながら言うので千尋も何だか気恥ずかしくなってしまった。「そ、そう? それじゃやめる?」すると渚は千尋の手をギュっと握りしめた。「やめたくない、こうしていたい」何だか子供みたいにむきになっているようにも見える。千尋はそんな様子がおかしくて微笑んだ。**** それから二人は手を繋いで街を散策した。 本屋さんでは一緒に料理の本を探したり、未だにパジャマを持っていなかった渚の為にパジャマを選んだり、雑貨屋さんではお揃いのマグカップや食器を買ったりした。 お昼は最近テレビや雑誌でも取り上げられているアジアンテイストなカフェで渚が選んだ店だった。混雑時間を避けて行ったので、幸いにもすぐに店に入ることが出来た。この店はカフェであるが、ランチメニューには和食を提供すると言うことで話題を呼んでいる。 「渚君、いつの間にこんなお店見つけたの?」席に着くと早速千尋は尋ねた。「実はさっき、本屋に行ったときにこのお店が雑誌で紹介されていたんよ。今日の朝ご飯はトーストだったからお昼は和食がいいかなと思ってこの店を選んだんだ」渚と千尋は二人で<本日のおすすめ>を選んだ。木のお盆に乗せて運ばれてきたのは、玄米ご飯に豚汁、大根おろしの付いたホッケの焼き魚におひたしである。「うわあ……美味しそう。玄米ご飯なんて素敵」「そうだね、この店に決めて良かったよ」味は文句なしに絶品だった。渚は特に豚汁が気に入ったようで、どんな具材が入っているのかメモした程である。 食事を終えた後は、駅の構内にあるカフェに入り、二人でコーヒーとケーキセットを食べ……気が付くと時刻は17時を過ぎていた。「渚君、そろそろ帰ろうか?」千尋は椅子から立ち上がって声をかけた。「うん……そうだね」電車の中で、今夜のメニューは何にするか話し合った結果、家でパスタを作って食べることに決めた。「私が今夜は作るね。何味のパスタがいい?」「僕は千尋が作ってくれるならどんな味だっていいよ」「それじゃ、クリームパスタにしようかな? 材料買いたいか
「そうだね、特に何も予定無いから一緒に出掛けようか?」「本当? 今日1日僕に付き合ってくれるの? やった! 言ってみるものだね」渚は大袈裟なほど喜んでいる。正直、そこまで喜ばれると何だか千尋は照れ臭い気持ちになってしまう。(まさか、そこまで喜ぶなんてね)「でも、出かけるって言っても何処へ行こうか?」「それなら大丈夫! 実はね、ずっと前から千尋と一緒にやってみたい事を色々考えてたんだ。え~と、例えば公園に行ってボートに乗ったり、手作りのお弁当を持って動物園や遊園地に行ってみたり、車をレンタルしてドライブに出掛けたり……」渚は指折り数える。「渚君……そんなに色々考えてたの?」「でもね、これはまた別の日のお出かけプランだから。今日は別」「? それじゃ何をするの?」「千尋はお休みの日に出掛ける時はどんなことをするの?」「う~ん……特にこれといっては無いけど。でも友達と出かける時はウィンドウショッピングをしたり、お洒落なカフェに入ったり、本屋さんとか雑貨屋さんに行ってみたり、そんな感じ」「じゃあ、今日は僕とそれをやろう?」「ええ? こんな単純なお出かけでいいの? 大して面白くないけど?」「僕はね、千尋が普段お休みの日に何をして過ごしているか知りたいし、共有したいんだ」渚は千尋を見つめる。(あ、またこの目だ……)渚の目は熱を帯びたように千尋をじっと見つめている。この目で見つめられると千尋は何だか落ち着かない気持ちになる。普段は男を感じさせないのに、この目をされると一人の男性として意識しそうになってしまう。「それじゃ……渚君がそうしたいなら、それでいこうか?」「うん、決定だね」先程の表情は消えて、普段通りの無邪気な笑顔に戻っていた――*** 目的の場所は千尋が住む駅の5つ先の駅だった。駅を出て歩きながら渚が尋ねてきた。「千尋はどこで買い物やカフェに行ったりするの?」「ここはね、沢山のデパートがあるし、海外からやってきた話題のインテリアのお店や雑貨屋さんやカフェ、何でも揃ってるんだよ」「へえ~楽しみだな」今日の渚は紺色のスウェットの上にグレーのチェスターコートを羽織り、デニムスキニーをはいている。外見もさることながら、モデル並みの体形もしているので道行く若い女性たちが振り返って渚を見ている。(やっぱり、こうしてみると渚君て格好
ピピピピ……目覚まし時計が千尋の部屋で鳴っている。「う~ん……」半分寝ぼけながら時計を止めて、洋服を着たまま眠ってしまっていたことに気付いた。「やだ……私、服の…ま眠っちゃったんだ。でもいつの間にベッドに入ったんだろう?」渚と2人でワインを1瓶空けてしまったことまでは覚えている。「え~と、その後は……? どうしたっけ?」全く記憶が抜け落ちている。「酔っぱらったまま自分で部屋に移動したのかな? とにかくお風呂に入らなくちゃ」化粧も何も落とさないで眠ってしまったのだからお風呂に入ってさっぱりしたい。「渚君は起きてるのかな?」着替えを持って廊下を歩いていると、台所から気配を感じる。覗いて見ると、やはりそこには渚がいて朝食の準備をしていたところだった。「おはよ……。渚君」千尋は遠慮がちに声をかけた。「あ、おはよう千尋。昨夜はお風呂入らないで眠っちゃったでしょう? 沸かしておいたからお風呂に入っておいでよ。その間に朝ご飯の準備をしておくから」渚は笑顔を向けてくる。「あ、ありがと……。何だか渚君にお世話されっぱなしで申し訳ないね。何かお礼しないとね。何がいいか考えておいて」「いやだな~。前から言ってるよね? 僕が勝手にやってるだけなんだから、そんなこと気にしないでよ」「でも、それじゃ私の気持ちが……」「う~ん。それじゃ何か考えておくね」「よろしくね。それじゃお風呂入ってくるね」****「ふ~気持ちいい。朝からお風呂なんて贅沢してるみたい」千尋はお風呂の中で大きく伸びをした。本当に渚と暮らし始めてからは世話になりっぱなしだ。「渚君、何か考えておいてくれてるかな?」お風呂からあがり、ドライヤーで髪を乾かしてから台所に行った。「あ、千尋。丁度良かった、今朝ご飯の準備が終わったところだよ」今朝渚が用意した朝食は、トーストに目玉焼き、ベーコンにボイルしたウィンナーとサラダ。そしてトマトジュースである。「トマトジュースはお酒を飲んだ翌日に飲むのに最適な飲み物なんだよ。食後は千尋のお気に入りのコーヒーを淹れるね。冷めないうちに食べよう?」「ありがと、渚君」千尋がテーブルに着くと、渚も座った。2人向かい合わせに座ると手を合わせた。「「いただきます」」「ほんと、渚君の作った料理って見栄えもいいけど味も最高だよね。私も負けないように
「じゃーん! 見て、千尋。今夜は腕によりをかけて料理を作ったよ!」渚は笑顔で大袈裟に両手をテーブルの上で広げた。「うわあ……すごい!」千尋はテーブルの上に並べられた料理に目を見張った。トマトソースのラザニアに野菜のグリル焼き、ハーブを効かせた焼き魚にパセリを散らしたポタージュ。どれもが素晴らしい出来栄えだった。「さあ、座って千尋」今夜も渚は紳士的に椅子を引いて千尋を座らせる。千尋がテーブルに着くと、渚は言った。「千尋、今夜はお祝いだよ」そしてワイングラスを2つ並べ、赤いワインを注いだ。「明日仕事がお休みなんだし、たまにはお酒もいいでしょう?」「あ、お祝いと言うことは……面接大丈夫だったの?」「うん、明後日から仕事だよ。さ、乾杯しよ?」「そうだね」千尋は笑みを浮かべて返事をした。「「乾杯」」二人はグラスを合わせた。「家でワインなんて飲むの久しぶり……。普段飲むのってチューハイばかりだったから」千尋はうっとりしたようにグラスを傾けて口にした。「う~ん! 美味しい!」「良かった。千尋に喜んでもらえて」 それからしばらくの間楽しい時が流れたが、やがて千尋は我に返った。「あ、でも待って。本当は私がお祝いする立場だったんじゃないの?」いつの間にか、あれ程あった料理は殆ど食べ終わっている。「ごめん……。今更だよね。もう殆どご馳走食べつくしておいて……」「どうして? だってようやく千尋のお金の負担を減らせるようになったんだから。今夜はそのお祝いなんだよ?」「え? お金の負担を減らすって……?」(まさか仕事が決まったから早々にこの家を出るって言うのかな?)「実はね。仕事も決まったし、千尋に大事な話をしたいんだ」渚は言い淀んだ。千尋は両手をギュッと握りしめて話を聞いている。「言いにくいんだけど……最初に会った時に話した事だけど、仕事が決まるまでの間、住まわせて欲しいって話……無かったことにして欲しいんだ」「え?」「あ~つまり、仕事は決まったけど、ここの家に置いてもらいたいんだ。駄目かな?」上目遣いに千尋を見る。「……」黙って話を聞いている千尋を見て渚は不安に感じたのか、言葉を続けた。「これからはお給料も貰えるから、生活費だって千尋に渡せる。ううん、僕のお金なんて全部渡しても構わないと思ってる」縋るような目で千尋
渚が面接を受けに行ったすぐ後に千尋も病院を後にした。<フロリナ>に戻って午後も接客や花の手入れ等で忙しく働き、千尋が仕事を上がる直前に渚が店を訪れた。「千尋、迎えに来たよ。一緒に帰ろう?」心なしか渚の声はいつも以上に明るかった。「渚君、迎えに来てくれたの? 忙しかったんじゃないの?」千尋は渚が買い物袋を提げているのを見て尋ねた。「大丈夫だよ、もう食事の準備は出来てるから。これはちょっと買い足してきた分なんだ」そこへ中島がやってきた。「渚君。毎日青山さんのお迎えご苦労様」「いいえ、僕は渚と一緒に帰りたいから迎えに来てるだけですよ」「む……相変わらずはっきりと言うわね。余程青山さんが大事なのね?」「勿論です! 千尋は僕にとって物凄く大切な人です」笑顔ではっきりと渚は言い切った。「おお~。相変わらずストレートな物言いをするわね……」質問した中島の方がむしろたじろいでいる。「な、渚君! 声が大きいってば!」千尋は慌てて小声で注意した。「あ、ごめん。つい大きい声出ちゃった」周囲にいた若い女性客たちも渚の発言が聞こえていたのか、ヒソヒソささやきあっている。「ねえ~聞いた? 今のセリフ」「うん、聞いた聞いた」「羨ましいなあー。一度でもいいからあんな風に言って貰いたいね~」「あの店員の女の子、羨ましいね」すっかり千尋は注目の的だ。(だから違うのに……)千尋は心の中で思った。渚は自分に愛情表現を向けてくるけれども、それはどうも男女の愛情表現とは違うように感じていた。そう、まるで家族。しかも親子関係に向けられる愛情表現のように感じられるのだった。だからこそ千尋も渚と同居生活を続けていられる。千尋自身、渚を一人の男性として意識してみたことは無かったし、多分この先も無いだろうと考えていた。「じゃあ、すぐに帰る支度するからお店の外で待っててくれる?」「うん、分かった。外で待ってるね」渚は素直に言うことを聞くと店の外へと出て行った。「渚君て青山さんの言うことなら何でも聞くよね?」中島が言った。「え? 本当ですか? 私そんなにしょっちゅう命令してますか?」「あ、ごめん。そういう意味じゃないのよ? まるでご主人様と飼い犬のような関係のようなって、あ~私ったら一体何しゃべってるのかしら…!」そこへ一人の女性客が声をかけてきた。
千尋と渚は病院内部にあるレストランにやってきていた。「うわあ~病院の中にあるとは思えない綺麗なレストランだね」渚は辺りを見渡しながら感嘆の声をあげる。「本当。とっても広いしメニューも豊富で美味しそう」千尋はレストラン入り口にあるメニューを模した沢山のサンプル食品を見つめた「早く中に入ろうよ、千尋」笑顔で渚は手招きし、2人はレストラン中央のテーブル席に座ったが、中々店員がやって来ない。「店員さん、来ないね」千尋は渚に小声で話しかける。「そうだね。僕が直接頼んでくるよ。何だか忙しそうだから」待っててと言うと渚は店員を探し回り、見つけた男性店員に声をかけに言った。そして暫く話し込んでいる。「? 何話し込んでるんだろう?」千尋は不思議に思った。やがて話を終えた渚が戻ってくると千尋は尋ねた。「どうかしたの? 渚君」「うん。実はね、この店オープンしたてで人手が足りなくて困っているらしいんだ。だからここで僕を働かせてもらえないか聞いてみたんだよ。丁度新しい仕事探していたしね。悪いけど千尋、この後面接したいって言われたから先に帰っていて貰えないかな?」「そうだったの。分かった。それじゃコーヒー飲んだら先に帰るね。あ……でも大丈夫? ここからどうやって帰るの? 歩くには遠いし」<フロリナ>から山手総合病院までは車で15分はかかる。歩くには少し距離が離れすぎている。「大丈夫、駅前までバスが出ているから帰りはそれに乗って帰るよ。面接が終わったら一度帰って家の事終わらせたら千尋の帰る時間に迎えに行くからさ」その時、ウェイターが2人の間にコーヒーを2つ運んできた。「お待たせいたしました」テーブルの上にコーヒーを置くと「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく。渚はコーヒーの香りを早速嗅いだ。「へえ~。すごくいい香りがする。中々良いコーヒー豆を使っているみたいだよ」千尋も言われて香りを嗅いでみるが、渚と違って違いが分からない。「う~ん……。私にはあまり違いが分らないかなあ?」「アハハッ、そりゃそうだよ。僕はコーヒーにずっと触れて仕事してたから分かるけど、普通の人には匂いだけじゃ中々分からないと思うよ?」そこから少しの間、2人はコーヒータイムを楽しんだ……。「ごめんね、千尋。一緒に帰れなくて」コーヒーを飲み終えた渚が席を立った。「ううん、
遠目から里中や千尋達の様子を患者のマッサージを終えた近藤が見ていた。「ふっ、後輩思いの俺が何とかしてやろうじゃないか」患者を見送ると近藤は千尋達の方へ行き、声をかけた。「お疲れ様、千尋ちゃん」「あ、こんにちは。近藤さん」丁度千尋が生け込みの仕事を終了したところであった。「うん、いいねえ~。このお花の飾りつけ。まさにクリスマスって感じがする」赤い薔薇やゴールドに染められたマツカサを取り入れた生け込みはとても美しかった。「ところで、君は誰なんだい?」渚の方を向くと尋ねた。「僕は間宮渚。今千尋の家で一緒に暮らしてます」千尋が止める隙は無かった。それを聞いて流石の近藤も驚いた。「え? えええっ! 一緒に暮らしてる? 千尋ちゃん、確か一人暮らししてたよね?」「は、はい……。そうでした。以前は」「何? それじゃ本当に一緒に暮らしてるわけ? この男と?」近藤は千尋と渚の顔を交互に見ながら尋ねた。「はい、そうです。今は僕が千尋の代わりに家事をやってますよ」すると渚が答えた。「あ、もしかして親せきかな~なんて」「違います、親戚じゃないです」「じゃあ、全く赤の他人……?」「は、はい、そうなんです……」千尋は困ったように返答した。「え~と、渚君だっけ? どうして千尋ちゃんと一緒に暮らしてるんだ?」近藤はじろりと渚を見た。「おい、近藤。お前首を突っ込すぎだろ?」そこへ野口が現れた。「あ、主任……」「青山さんと彼の事にお前は関係ないんだから詮索するのはやめるんだ。それより、もうすぐ次の患者さんが来るんだから準備してこい」「は、はい!」近藤は慌てて持ち場へと戻って行った。「すみませんね。里中も近藤も悪い奴らじゃないんですが」「いいえ、いいんです。全然気にしてませんから」千尋は荷物を手に取った。「行くの? 千尋」「うん、終わったから戻ろうか?」「それじゃ、失礼します」千尋が主任に挨拶すると引き留められた。「ちょっと待って下さい。はい、これどうぞ」千尋に2枚の券を渡してきた。「これは?」「実はこの病院のレストランが新しく改装されたんですよ。そのオープン記念として病院スタッフには無料のコーヒー券が配られたんです。良かったら二人で帰りに寄ってみたらどうですか?」「でも、貰う訳には……」「大丈夫、実は役付きのスタ
「あの男は……!」その顔に里中は見覚えがあった。(数日前に千尋さんと花屋の前で見つめあっていた男だ!)「あれ~誰だ? あの男。新しい花屋の店員かな? それにしても高身長だし、ルックスもいい男だな。まるで芸能人みたいだ。な、お前もそう思わないか?」お気楽そうな近藤の物言いが何故か癪に障る。現に近藤の言う通り、周囲にいる女性陣から注目を浴びていた。「え? お、おい。どうしたんだよ里中」近藤が止めるのも聞かず里中は二人に近づくと声をかけた。「こんにちは、千尋さん」「あ、こんにちは」千尋はペコリと頭を下げた。「こんにちは」渚も千尋にならって里中に挨拶をしたので、近藤は渚の方を見た。「初めまして、俺はここのスタッフの里中と言います。いつも千尋さんにはお世話になっています」「里中さんて言うんですね。僕は間宮渚です。よろしくお願いします」渚はいつものように人懐こい笑顔を浮かべた。(ちっくしょ……。確かに負ける……)渚の身長は里中よりも10㎝は高いだろうか。当然見上げる形になってしまう。しかも外見も申し分ないときているので嫌でも劣等感を抱いてしまう。そこへ野口がやってきた。「ああ、青山さん。本日もよろしくお願いします」「こんにちは、野口さん。12月になったので今日からクリスマスをイメージした飾りつけにしていこうと思ってるんです」「それは素敵ですね。患者さんやスタッフ皆楽しみにしてますよ。ところでこちらの方は? 新しい店員さんですか?」「僕は……」渚が言いかけると、それを制するように千尋が代わりに答えた。「え、ええ。そんな所です。運搬作業を手伝ってくれたんです。渚君、この方はここリハビリステーションの主任で野口さん」「初めまして」渚が頭を下げた。「ああ、こちらこそよろしく。……おい、里中。お前いつまでそうしているんだ? 早く仕事に戻れ」野口はいつまでもその場を動こうとしない里中をじろりと見た。「あ、す、すみません! すぐ戻りますんでっ!」里中は慌てて持ち場へと戻って行った。 患者のリハビリ器具を取り付けながら里中はフロア内で花の飾りつけをしている二人をチラチラ見ている。よく観察してみると飾りつけをしているのは千尋のみで渚は千尋に花やリボンを手渡しているだけである。(あの渚って男……役にたってるのか?)「……君。ねえ、里